「きっと、朱莉さんのお陰ですよ。貴女には本当に悪いことをしてしまったのに、色々親切にして貰って感謝していると何度も言ってましたよ」「そうですか……明日香さんが……」安西の言葉に朱莉は思わず頬を染めて、俯いた。すると航が言う。「貴女って変わった人ですよね? 話は聞いたけど相当酷いことをあの女にされてきたじゃないですか?それなのに憎むどころか親切にして。しかも彼女の話を今も嬉しそうに聞いていたし」「確かにそうかもしれないけれど、私は誰かといがみ合いたくはないんです。出来れば皆と仲良くしていきたいと思っているんです」朱莉の答えを航はつまらなそうに聞いている。「あっと……いけない。そろそろホテルに戻らないと」不意に安西が腕時計を見た。「どちらのホテルですか? お送りしますよ?」朱莉が言うと安西は首を振った。「いえいえ。そんなご迷惑は……」しかし、航は言う。「いいじゃないか、送って貰えば」「航! お前と言う奴は……!」そんな2人を見て、朱莉はクスリと笑った。「遠慮なさらないで下さい。東京では色々とお世話になったんですから」こうして渋る安西はようやく納得し、朱莉は2人を連れて車で送ることになった。**** 朱莉の車に乗り込んだ安西は言った。「おお、これは素敵な車ですね。女性らしさを感じる。買って間もないんですか?」「まだ2か月程ですね。免許を取ってすぐに車を買ったので」朱莉が答えると航が驚いた。「ええ!? な、何だって!? それじゃまだ運転歴が浅いのか!? おい、大丈夫なのか?」「大丈夫ですよ。車を買ってからは毎日乗ってるんですから。車庫入れだってばっちりです。それより気付かなかったんですか? 初心者マーク貼ってあることに」確かに朱莉の車には前後に初心者マークが貼ってある。「うっ! ほ、本当だ……。気が付かなかった……。お、俺としたことが……」何故か大袈裟に悔しがる航。その姿に朱莉は思わずクスクス笑ってしまった。「どうしたんですか? 朱莉さん」突然笑い出した朱莉を不思議に思い、安西は声をかけた。「い、いえ……。初心者マークを見落とすのに、興信所の方なんだと思うと、つ、つい……」「な……! ひょっとして……俺を馬鹿にしてます?」航の恨めしそうな声に朱莉は慌てて謝罪した。「す、すみません。そんなつもりじゃ……ただ可愛
翌朝――朱莉は昨日約束した通り、安西親子の宿泊するホテルに迎えにやって来ていた。駐車場で待っていると安西と航がこちらへ向かってくる姿が見えた。「おはようございます、安西さん。航君」笑顔で2人を出迎える朱莉。「朱莉さん、おはようございます。本当にこんな朝早くから申し訳ございません」「おはよう」航も朱莉に挨拶する。その時、航は大きなキャリーケースを手にしていたが、この時の朱莉はそれを特に気にも留めることは無かった。「それでは空港へ向かいましょうか? どうぞお乗りください」朱莉は2人を乗せると那覇空港へ出発した――****「いや〜本当に助かりましたよ。朱莉さん」空港に着くと安西は何度も何度も朱莉に頭を下げてきた。「そんな、顔を上げて下さい。私から言い出したことなのですから」朱莉は困り顔で言うと、アナウンスが流れた。それは羽田行きの便が到着した知らせである。「ほら、父さん。もう行けよ」航が安西に声をかけた。「ああ、そうだな。こんな所でいつまでも朱莉さんをお引止めするわけにもいかないし。それじゃ、航。今日から3週間しっかり頼んだぞ」「言われなくても分かってるよ。これでもプロのつもりだからな」「朱莉さん。それではこれで失礼しますね」「はい、どうぞお元気で」朱莉は笑顔で安西に別れの挨拶をすると、彼は背を向けて歩き去って行った。航と2人きりになった朱莉は尋ねた。「ねえ航君。ところでこの大きな荷物は一体何?」「はあ? 見れば分かるだろう? 沖縄に滞在するまでの俺の着替えとかが入ってるんだよ」すっかり航は年上の朱莉に対してぞんざいな口を利くようになっている。「え? 着替え? さっきのビジネスホテルにずっと泊まるんじゃなかったの?」「あのなあ……こちらは限られた予算で動いているんだ。そんな無駄なこと出来るはずは無いだろう? ネットカフェに泊るんだよ。こんなに暑くなければキャンプ場でテント張って寝泊まりするんだけどな……」航は遠くを見るような眼つきになる。「ええ!? そうだったの……? ひょっとしていつもそうやって遠方での調査はネットカフェに泊まっていたの?」朱莉はあまりの話に驚いた。「いや、こんなことは初めてだ。何せ場所が沖縄だもんな。それじゃ俺はもう行くよ。これからネットカフェを探さないといけないから。じゃあな」そう言っ
「ほ、本当にこんなすごい部屋に住んでたのか……!?」航は部屋に入るなり、驚きの声を上げた。「うん……。そうなんだ。だから言ったでしょう? 部屋は広いし、一部屋余ってるから3週間の間、ここに住めばって言ったの分かった?」朱莉は航の背後から声をかけた。「だけど……本当にいいのかよ」突如航が真剣な顔で朱莉を見る。「え? 何がいいって?」「だって……仮にも俺は男であんたは女だ。他人同士の男女が1つ屋根の下に住むなんて世間的に見たらおかしいだろう?」「う~ん……確かに。でも私は誰も知り合いがいないから、何か聞かれることも無いんだけどな…」「い、いや。俺が言ってるのはそういう意味じゃなくて……」「あ、それじゃもしコンシェルジュの人に何か聞かれたら……私の年下のいとこってことにすればいいんじゃない?」朱莉はポンと手を叩く。「へ……? いとこ……? だ、だから俺が言いたいのは……」そこまで言いかけた時、航の足元に何かが飛びついてきた。「うわああああ!?」突然の出来事に航が驚いて下を見ると、足元にはネイビーがいた。「へ……? う、うさぎ……?」「ネイビー。おいで」朱莉はネイビーを抱き上げると航に説明した。「このこはネイビーって言う私の大切なペットなの。これからよろしくね。航君」「あ、ああ……よ、よろしく……」航は呆然としながら言った。そして心の中で思う。もう、どうにでもなれ――と。****「それじゃ、俺はこれから調査に向わないといけないから」航はカメラやら小型PCなどを取り出し、リュックに詰めた。「大変だね、到着して早々に仕事なんて」朱莉はその様子を見ながら声をかける。「仕方ないさ。こっちはギリギリの日程で動いているんだ。休んでる暇なんてないさ」そんな様子の航を見ながら朱莉は思った。(何だか、大変そうだな……。そうだ)「航君、車で送ろうか?」「は……はあ!? な、何言ってるんだよ! そんな事無理に決まってるだろう!?」航は大声で反論した。「え? 無理なの?」「当り前だ! 個人保護法に乗っ取って、俺達は仕事してるんだ。関係無い人間を現場に連れて行けるはずが無いだろう?」「そっか……言われてみればそうだったね。ごめね、航君」「べ、別に謝ることじゃないだろう?」(全く……朱莉って女がこんな天然な性格をしているとは
航が玄関を出て行くのを見届けた朱莉は足元にいたネイビーを抱きかかえた。「ネイビー。誰かに行ってらっしゃいって言えることって何だか嬉しいね」考えてみれば朱莉は母が入院生活に入ってからは何年もの間、1人で暮していた。父の死と会社の倒産、そして高校中退という環境は朱莉から友人を奪ってゆき、代わりに孤独を与えたのだ。でも、誰かが側にいて一緒に暮らす……このことを考えるだけで朱莉の心は楽しくなった。ここは広々とした大きな部屋。必要な物は何でも揃っているが朱莉が本当に欲しいものは手に入ることは無かった。孤独な生活から抜け出したいとこんなにも自分が望んでいたとは今迄思ってもいなかった。「航君……カレー好きかな?」朱莉はネイビーの背中を撫でながら、そっと呟くのだった——**** 19時過ぎ—― 朱莉の部屋のインターホンが鳴った。カメラを確認するとそこに立っていたのは疲れ切った顔をした航であった。「航君? 待ってね。今ドアを開けるから」朱莉はボタンを操作すると、航の立っているホールの自動ドアが開いた。「……スゲー設備」ボソッと航は呟くと、重たい足を引きずって中へと入って行った――5階の朱莉の部屋の前に付くと、航は再度インターホンを押す。するとすぐにドアが開けられた。「お帰りさない、航君」そこには満面の笑顔の朱莉が立っていた。「な、な、なんでそんな笑ってるんだよ……」航は後ずさりながら尋ねると朱莉の頬が赤く染まる。(え……? 朱莉……?)航は一瞬ドキリとした、次の瞬間。朱莉が口を開いた。「あ、あのね……。私ずっと1人暮らしが長かったから……誰かに『お帰りなさい』って言ってみたかったの。ありがとう、航君」満面の笑顔で微笑まれ、航は戸惑ってしまった。まさか、たったこれだけのことで朱莉がこんなに幸せそうな笑顔を見せるとは思わなかった。そして、それと同時にフツフツと翔に対して怒りが込み上げて来るのも事実だった。(くそ! あの翔とか言う男め。いくら大企業の副社長だからと言って非人道的なことしやがって……!)航は思わず拳をギュッと握りしめた。そんな様子の航を見ながら朱莉が声をかけた。「航君、疲れてるみたいだね? そうだ! ご飯の前に先にお風呂に入る? あのね、ここのマンションのお風呂にはジェットバスやミストサウナがついてるの。試してみたら?」
30分後—―航がバスルームから出てきた。丁度朱莉はその時、ネットで英会話の勉強をしている所だった。「あ、お、お風呂ありがとう」航は目を伏せながら礼を述べる。「あれ? 航君もう上がってきたの? 早かったね」朱莉は立ち上がった。「そりゃ、あれだけ広くて綺麗だとかえって落ち着いて風呂なんかに入っていられないだろう? 何だか自分が酷く場違いな所にいるような感覚になっちまったんだよ!」言いながら航は思った。俺は何故こんなにも力説しているのだろう……と。「ねえ、航君。今夜カレーを作ってみたんだけど、好き?」「うん? カレーを嫌いな奴なんてこの世にいるのか?」航の返事に朱莉は嬉しくなった。「良かった〜もし嫌いだって言われたらどうしようかと思っちゃった」「だから俺言っただろう? 別に好き嫌いは無いって」「そう言えばそうだったね。さ。それじゃ座って座って」朱莉は嬉しそうに航に椅子を進める。「待っていてね、すぐに準備するから」冷蔵庫から用意しておいたアボガドに蒸しエビが入ったサラダと福神漬けを出してくると、楕円形のプレートに熱々ご飯と彩りたっぷりのカレーをよそい、航の座るテーブルの前に置いた。「へえ~見た目はいいじゃないか」航はつい照れ隠しに意地悪なことを言ってしまった。「そう? ありがとう。それじゃ味はどうかな? 食べてみてくれる?」「う、うん。いただきます」そしてスプーンですくって口に入れる。「……うまい」「本当?」朱莉は嬉しそうに笑った。「ああ、美味いよ。まあもっともカレーを不味く作る奴の方が珍しいだろうけどな」そこまで言って、また航はハッと思った。(お、俺は、又ひねくれたことを……)恐る恐る朱莉の様子を伺うも、朱莉は気にする素振りも無く美味しそうにカレーを口に運んでいる。「やっぱり誰かと食べる食事って、それだけでご馳走だよね?」朱莉のその言葉を聞いた時、航は何だか胸が締め付けられそうに感じ、改めて部屋の中を見渡した。2LDKの広々とした部屋。この部屋でも1人暮らしの朱莉には十分すぎる広さなのに、聞くところによると六本木の朱莉が住む億ションはこことは比較にならない位の広い部屋だという。(そんな広い部屋で……ずっと1人きりで住んでいたのかよ……。しかもこの先後5年間も……!)再び、航の中で翔に対する怒りが湧いてくるの
朱莉がお風呂に入っている間、航はリビングでPCを前に明日向かう場所のチェックをしていた。すると、程なくして朱莉がお風呂から上がってくると航に声をかけた。「航君、仕事してたの?」「ああ。事前に準備しておかないとな。ルートとか……対象者見失う訳には……って何言わせるんだよ」航が顔を上げると、丁度キッチンで朱莉が麦茶を飲んでいるところだった。「朱莉は本当に酒飲まないんだな」「う、うん。飲み会とかそんなの行ったことが無いし、1人で暮してると中々お酒飲むことって……。あ、そう言えば沖縄に来て初めて居酒屋に入ったんだっけ」朱莉の頭に九条の記憶が思い出された。(九条さん……まさか社長になってるなんて……)「朱莉」その時、ふいに声をかけられ、顔を上げるといつの間にか航がリビングからキッチンに移動していた。「びっくりした。いつの間にここに来てたの ?何?」「まさか1人で居酒屋へ行ったのか?」真面目な顔で航が尋ねる。「え? まさか。一度もお酒を飲んだことが無い私が1人で居酒屋へ入れるはずないよ」「それじゃ誰かと行ったんだな? 誰とだ? あいつ……鳴海翔とか? いや……そんなはず無いな。だってあの男は朱莉を顧みるような男じゃ無いからな」「航君……?」妙に棘のある言い方をするなと朱莉は思った。「誰と行ったんだよ?」航は尚も追及してくる。「え、えっと、九条……琢磨さんだけど?」「九条……九条ってあいつか!?」航の顔が険しくなる。明日香と翔の関係を調べる際に、九条の事を調べたのも航だ。エリートの上、顔が整っている優男。いかにも女受けするタイプの男だ。「あ、そうか。航君は九条さんのことも調べたんだもんね。だから知ってるんだ」「いや、知ってるのは俺だけじゃ無いぞ? 今や世間で知らない人間はいない位有名人だ。連日ニュースで騒がれてるじゃ無いか。あの大手通販会社『ラージウェアハウス』に入社して、たった1カ月で新社長に任命されたんだ。しかもあのルックスだろう? 連日ネットで騒がれてるぞ? それにこの間もビジネス誌に5ページにも渡って、あの会社の特集が組まれていて顔写真も載っていたしな。あの時の雑誌の売り上げは前月号の2.5倍あったそうだ」航がまくしたてるように言うのを朱莉は半ば唖然と聞いていた。「わ、航君て……すごいね」「凄い? 俺の何処がだ?」
「うん、そうだよ。ところで航君。仕事の続きはいいの?」朱莉に促され、航はまだ作業が途中だったことを思い出した。「あ!やべっ!こうしちゃいられなかった!」慌ててリビングへ戻ると再び航はPCと向き合って、色々検索を続けた。その間に朱莉は空き部屋へ行くと、航の寝る部屋の準備をした。幸い、寝具は全て揃っている。ベッドに布団を敷き、エアコンの温度を26度に設定すると部屋に戻って来た。時計を見ると時刻は23時半を示している。「ねえ……航君はまだ寝ないの?」朱莉は遠慮がちに声をかけた。「ああ。もう少し調べることがあるから。朱莉は俺に構わず寝ていいよ。電気は消しておくからさ」航はPCから顔を上げると答えた。「航君。明日は何時に起こせばいい?」「へ? お、起こす…子供じゃないから1人で起きれるって!」航の顔が赤く染まる。「そうなの? それじゃ何時に起きるの?」「う~ん……6時半には起きるかな?」「ねえ、航君は朝はパン派? それともご飯派?」「え……? ま、まさか俺に朝ご飯考えてたのか……?」「うん。当然じゃない」「お、俺はコンビニで適当に買ってこようかと思っていたんだけど……」「だって私も朝ご飯食べるんだから一緒に食べようよ。それで、パンとご飯どっちがいい?」「そ、それじゃ……ご飯で……」航は赤くなった顔を見られないようにフイと横を向きながら答える。「うん、ご飯ね。それで何時に出掛けるの?」「8時には出るよ」航は素っ気なく答える。「8時ね。了解。それじゃ私、もう先に寝るね。お休みなさい」「ああ、お休み」その言葉を聞くと朱莉は顔を赤くした。「朱莉……?」(な、何で赤くなってるんだよ!)「フフ……」次の瞬間朱莉は笑みを浮かべ、嬉しそうに自室へと向かった。その後姿を見ながら航はポツリと呟いた。「やっぱり……朱莉が何考えてるか分からねえ……」朱莉が自室へ行って約1時間後——「ふう~…」航はPCを閉じると、伸びをした。「そろそろ寝るか……。朱莉はもうとっくに眠ってるんだろうな?」リビングの電気を消して、与えられた部屋へと向かった。そして部屋へ入ると航は呟く。「やっぱり住む世界が違うな……」8畳の広さがあるフローリングの部屋。ベッドはいかにも高級なイメージを醸し出したダブルサイズ。備え付けの家具も全て立派だ。「全く…
朱莉と航は向かい合って食事をしていた。献立は白米に根菜の味噌汁、浅漬けに焼き鮭と厚焼き玉子。「うん。どれも美味いな」航は素直に言った。どれも優しい味わいで、朱莉の性格を現しているかのようだった。「ねえ、航君」「何だよ?」航が顔を上げて朱莉を見ると、またもや朱莉の顔が赤くなっている。「な・な・なんだよ?」(だから何で顔を赤くするんだよ!?)「こうして二人で向かい合って食事していると……」「え……?」一体朱莉は何を言い出すのだろう……? 自然と航の心臓の音が高鳴ってきた。「仲の良い姉と弟って感じがしない?」そう言って朱莉はにっこり微笑んだ。「お……弟……?」航は開いた口が塞がらなくなってしまった。「あ、ああ! そうかい!」航は自棄になって箸を進めた。(くそ! 結局俺は弟扱いかよ!)航が仏頂面で食事する姿を見て朱莉は首を傾げた。「航君……もしかして何か怒ってる?」「べっつに!」しかし、航は自分が弟扱いされて、何故こんなにイラついているのか不思議で仕方が無かった――**** 玄関を出る時、航が言った。「朱莉、今日はちょっと遠くまで行くんだ。だから何時に帰れるか分からないから食事の支度は別にしなくていいからな? 先に寝てろよ」「え? そうなの? 何だ……一緒にご飯食べたかったのに、ちょっと残念だったな……。でも仕事だから仕方が無いね」俯き加減で言う朱莉に、何故か航は罪悪感を抱いてしまう。「し、仕方が無いだろう? 仕事なんだから……。で、でも……なるべく早く帰って来れるようには……」俯き加減でいいながら、航はチラリと見ると朱莉は嬉しそうにこっちを見ている。それはまるで犬だったら尻尾を振ってそうな勢いである。「な、な、何だよ! その顔は……」「うううん。なるべく早くって言葉が嬉しかっただけだから。それじゃ念の為にご飯は用意しておくね」朱莉は嬉しそうに言う。「あ、ああ」(何だよ……そんなに俺と一緒に食事がしたいのか? 変な女だな……)「行ってらっしゃい。あ、そうだ。航君。手、出して」「?」航が手を出すと、朱莉はカードキーを手渡してきた。「朱莉、これは……?」「スペアのカードキーよ。これがあればマンションの出入りは自由だから」「お、おい! そんな大事な物俺に預けていいのかよ? もし……俺が悪い奴だった
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう